対話の年にする

SNSの使い方が取り上げられる時代になってから時がたち教養、モラルと言う言葉も定義が各々で違うことを感じている。

自分の教養、モラル、価値観は自分で線を引く。

自分の線が基準となりその線からはみ出るものをモラルが無いとなる。

その自分の線はなんだ?

なんで引かれた線なのか?線を引いたストーリーを持てているのか?

国のルールか?憲法か?校則か?家庭環境なのか?

憲法もどんどん変わってきているぞ…。

結局自分たちの都合によって引かれた線なのではないだろうか?

そんなことをずっと頭にあった1年だった。

この線は互いにより良くしようと言う社会性の線なのではないだろうか。

複数いたら社会ができる。その社会の中で共存をはかる。社会を大事にするのなら線の引き方が色々と出てくる。多数決のような安易な引き方ではなく、全員が幸せになる線を引かなければ分断を生み、争いが起こる。

線を引くためには対話をしなければならない。

声が大きい者の意見が通る時代は影のSNSで誹謗中傷が起こる。陰口(誹謗中傷)は対話が無いから起こるのではないかと思ってしまう。

陰口を言う人が発言できない環境なのかもしれない。

陰口はダサいし、良くないと言う自分は、その陰口を言っている人の気持ちになっていない。

自分の価値観で線を引いた結果なんだと改めた。

できるならすべての人と対話したい。どんな価値観を持っているのか。どんなストーリーで生きてきたのか。

意見のぶつけ合いで白か黒かを決めるのではなく、相手が違うってことを知る時間なのかなと。

と対話の時間がなかなか取れないこの資本主義世界に愚痴っているメガネでした(^^;

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