高度経済成長により物質的な裕福はかなり充実した。
自分もその恩恵は受けて感謝さえしている。
その資本主義が始まりだした過程を学ぶとまた面白く考えさせられる。
鉄道が走り、機械が作られ、時間軸がかなり変化した。今までより多く運べて、多く作れるからだ。生産性が上がり、生産性が引いものは価値がないような状況であった。
働く過程で労働者として生産性が低い人は扱いがひどかった。
まさに働かざる者食うべからず。今の時代も資本主義においてはその仕組みが推奨されている。会社は売上を上げて成長しないといけないとなっている。
しかし、単位を小さく考えると家族や村と言った単位であれば、身体が弱くなったお祖父ちゃんお祖母ちゃんに価値が無いとは言わず、皆んなで助け合い、食事に関しても譲り合っていた。
さらに言えば、ある量しかなかったら若い命の為に上の者が我慢し、時には命すら経って次の世代に渡してきた。そんなことがあったのかと思うと感銘を受ける。
学校と言う組織が生産性を上げるために勉を強いられる形となり、そこに合わない子は苦しむ仕組みになっている。
どこまで友達問題と思うかどうかでとは思うが、そんな生産性においての学習が低い子を価値が無いような扱いはいかなるものなのか。そこを問い直さないといけないと思っている。ちょっと話が聞けなかったり、理解が遅いと、病名付けて知的障害的なことで解决する。それも1つの認知ではあるが、その先にどう言う世界を作りたいのか?作るために何をすべきなのか?
そんのことを考えることが歴史から学び、自分たちはどうしていくのかを導いていくことなのかと思っている。歴史には、そうなってしまう背景がある。結果だけを見るのではなく、ストーリーとして全体の流れを見ると色々な見方がある。
全ての子どもを認める場を設けることが僕の役目と思っている。中々難しいと思うが親や大人も含めて寛大に子ども達の成長を見守りたい。
コメントを残す