我が子の学校の話しだがクレームを言う保護者は何が目的なのか分からない。
何か問題があることを発することは構わないのだが、ただ文句を言っているだけにも聞こえる。
では、どう言う解决案があるのか?
その解决案は偏ってはいないか?
ある1つの見方をすると、その逆側が存在する。
その逆側を見ての問題提議なのかどうか。
そこまで考えると物を申す時に少し悩む。学校や先生も色々と考えた結果の案なのかと。だから対話が必要な時がきていると自分は強くおもう。
お互いに大事にしたいことを話し、何を優先にしていくのか。
その作業はとても時間もかかり大変だ。だから誰かに決めてもらい、ルール化して、その人の大事にしたいものはさておき速度を上げられてしまう。
それも全て資本主義の生産性からくる考えかたなのかと感じてしまう。子ども達がどのように生きていくのかより、「このように生きる為には」と用意された形や保護者の価値観を押し付けた手助けのように思ってしまう。
確かに今の社会構造の資本主義を楽しめている家庭なら、そこに乗ることが生きると言う事の正解なのかもしれない。その正解は一方からしか見ていない。メタ認知しないと本当に見たと言うことにならない。前提は何もわかっていない。そこから物事を捉えて問題提議をしないと全くの独りよがりのワガママと言い訳やろうになる。
自分は子ども達には客観的に物事を捉えて意見を持てるようになって「幸せとは?」を自分で考え見つけていけるような人になってもらいたいと強く思う。
そんなことをアプローチしているサッカーチーム、指導者が1つくらいあって良いだろう。
さあ、対話しようぜ
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