言語化が流行っている。
確かに言葉にすると分かることがある。定義されることにより明確になり曖昧さがなくなる。
しかし、子ども達にとってはタイミングが大事なのかと思ったことがある。
知らないことを言葉などで知ることがある。
しかし、それはあくまで一つの基準であって曖昧なときにどうなのかと言う余白は本人の心の持ちようなのか、開き直れるかで大分解釈が変わってくる。
簡単な話し、赤色を知らない子に赤色の折り紙を見せてこれが赤だよって教えることから理解を進めるとする。
ピンクや紅色は何色なのか?赤ではないとなるかなと。
では、リンゴは何色と問うとどうなるのか。
子どもとの関係性にもよると思うが、間違えてはならない空気間では答えられない子たちが多発する。
それは、折り紙の赤色ほど真っ赤な赤は自然界に中々ない。
そういう曖昧なものが沢山あるのが世の中だ。
ましてやスポーツなど同じシーンがまず無い状況で大人は似たようなシーンを客観的に見て再現性とか言ってしまうが、子ども達はまず同じようなシーンの経験値が少ないのと、そもそもすべての状況をカテゴライズして分けられない。
そこに言語化して「これはこう」と伝えることはかえって子ども達を」混乱させることになる。
世の中のトレンドを追うことが目的になっている大人たちもまずは現場の子ども達の様子を観察することが一番大事である。
同じようなシーンが増えたら、みんなで「こういう色合いが赤」と共有して定義すれば良い。
定義を最初に行うメリットとデメリットを理解した上でサッカーに言語化を求めないと現場は悲惨である。
そんなことを感じた最近である。
常に曖昧とは言わないが…基準は大事!これが定義になってしまう矛盾…w
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