中学校の成績表にこの手の評価欄がある。
確かに何事にも関心があった方が成長するかもしれない。確かに何事にも意欲的に取り組む方が色々と得られるかもしれない。確かに何事にも態度良くいた方が周りも困らないかもしれない。
これは先生や学校側にとっての扱いやすい子どもの評価軸のような気がしてならない。
もちろんあった方が良いのかもしれないが、それに当てはまらない子どもが駄目ってことではないはずだ。
大人も絶対にそうであると思っているのだが、興味がないニュースなどに関心意欲態度を持ちながら見られるのだろうか。
知らないことを知ると言うキッカケは大事と思う。何もしない、動かないことは人生として勿体ないし、損をしているのは理解できる。知らないことだからまず知ったらどうなのかを選んで決められることが理想である。
大事と思うのは先生方にその教科の楽しさ、面白さを存分に伝えて頂きたい。
学習指導要領に乗っ取ることが目的になってはいないだろうか。本来、先生がその教科を専門にしたくなった理由、ハマり具合を見せつける方が子供たちにとって興味があるのではないだろうか。
子どもたちも成績の為に態度を良くして、大して興味がないけど手を挙げて発言して点数稼ぎして、本当の教科の楽しさを見いだせないでいる子どもが大半なのではないかと思ってしまう。
とくに課題を感じる科目では、数学の一斉授業に限界を強く感じている。一斉授業だと理解の度合いによって時間の無駄が生じている。分かってる子は簡単で飽きる。分かっていない子は分からないから何をやってるのかも理解できず楽しくないから参加できない。ちょうど理解できる子にしか適切ではない。
分からない子に関心意欲態度を持てとは理不尽である。
まず、その前の段階なのかもしれないからである。
学校は基準線を引いて評価することが目的ではないはず。何年生だからと言う言葉は大っ嫌いである。足が速い遅いや、背が高い低いと同じで年齢によっても理解の出来る出来ないがあるはず。
それを学年で分けるから差を感じて自信が無くなり自己肯定感が失われていく。
自己肯定感なんてのはそもそも無く、生まれた時点で皆違うと言うところからスタートしているはずである。
だから、評価は自分自身で向き合うことであり、人と比べることが一番ではない。
どこかに線を引くから、そこから上か下かでその子を捉えてしまう。
本当は子どもたち皆が社会に出て、自律していけるようになる為の訓練期間が学校教育なのではないかと思う。
むかしのやり方を完全否定もしないがより良くするための対話が今後の社会に必要と感じる。
サッカーの現場も子どもを評価するが目的ではなく、自分で考え判断、決断し振り返られるようになる子どもに導くことが目的なのではないだろうか。
それは、僕らサッカーの指導者だけでなく、社会からそのように捉えた子どもの見方を常に持てるかどうかが問われている様な気がしている。
関心・意欲・態度は赤ちゃんから幼児の時はみんな持っている。
それを僕たち大人や社会が無くさせてしまってないか?と言う仮説は持たないといけないのではないだろうか。
それこそ、現代の流れ、常識に対して僕たち大人が疑問から、関心意欲態度を持たなければならない。
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