比べることは良くない。
自分は自分。
そう思う。
しかし、自分を知るには他者を観ないと自分が何が出来るのか、何が苦手なのか分からない。自分と何が違うのか。何が好きで何を嫌うのかなど、違うことをしる為には他者を観察しなくてはならない。
その他者との違いを知ることで自分と言う形が形成されていくのではないだろうか。
この他者を見比べるの解釈を間違うと不幸になる。
誰かと比べ、違いに評価を付けてしまう。勉強、運動、容姿、が代表例であろう。
ありのままで良いと思えるのは保護者や周りの関わっている方の愛と思っている。愛とは子供にとって、大人のでもそうかもしれないが安心感なのではないだろうか。
安心できる場があると人は心を休め、心が落ち着き、心が強くなっていくのではないだろうか。
ありのままでと言うようなキャッチフレーズが最近、いや昔からかもしれないが自分のアンテナに良く引っ掛かる。子ども向けの映画やドラマ、漫画などでは子どもと見るからか特にと感じている。
自分も年を取ったから簡単に涙するw
しかし、そこで自分はサッカーのコーチと、いち人の親である。
ありのままの君は好きだし、誰もが人間としては認めている。
しかし、「お前、それでいいのか?」と言いたい時も多々ある。
勉強できなくたって生きてく上ではなんとかななる。
嫌なことはしなくても良い。
生きたいように生きれば良いと本当に思っている。
しかし、そのままでいいのか?と言う。
この問い掛けがとても大事だと思っている。
と言うのは、あたなの存在は否定していないが時には自分を見つめるときも大事だと知らせるキッカケは与えないと駄目だと思っている。
小さいうちから、ちょっとしたことでも問い掛けてあげる作業が必要ある。
その色なんで好きなの?とか。意地悪だと、皆が好きだから好きのような回答をしてきてないかも見極めないとならない。
自分の意思を持たすには自分で自問自答できるようになって初めて確固たる意志が形成されるのではないだろうか。
〇〇ちゃんはカレーが好きだからね~と先に決めつけで言ってるような母親にハヤシライスは?シチューは?と子どもに問い掛けたい。なぜカレーが好きなのか?具材?肉じゃがじゃ駄目?
意地悪は無限なので、我が子はパパと話すの面倒~と会話が少なくなっているが・・・(^^;
しかし、この問い掛けが親のエゴで正解があって、そのままでは駄目!と強く親があると子どもは自問自答がうまくない人間になると思っている。
自分の自問自答は間違っているのでしょ?ならお母さん答え教えて!と
何を好きと言えば正解なの?のようになっていないだろうか?
学校も紙一重であると思っている。
多様性と言いつつ以前より少なくなってきているとも思うが、正解がある形の授業や仕組みがまだまだ多く。マイノリティが置いてけぼりになり、置いてけぼりをクラスで出してはならないと子どもの時は優等生だった若い先生(言うことを聞けない生徒の気持ちが分からない)にひまわり学級をほのめかされたり。
いや、あなたが管理しやすいだけでしょって。
だから我々大人は子どもを良く観察し、子どもの様子によってアプローチを変えなくてはならない。
子どもが言ってるからは本当に本意なのか?疑うのではなく問い掛けること。安心安全が担保された環境なら子どもは本音で対話する。
そこを親と言え見間違えることもある。
信頼信用することは絶対に大事
しかし、良い意味で子どもの本心を疑ってあげるような見方も時には大事なのではないだろうか。
そんなことを大事にしているジュニアチームがさいたま市で活動しています。
勝ったら嬉しい!けど、その勝ちはどんな勝ちでも満足しきれる?
なーんて問い掛けるウザイ指導者です。
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