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親の寛容さが子どものチャレンジを生む

こんにちは。さいたま市西区指扇で小学生のサッカーチーム烏天狗JrFCとして活動している代表を務めています岩田耕併です。

ネット社会が急速に普及し、世の中の情報が溢れ、勝手に目に入り、そこらじゅうに落ちている時代で生きていく未来の子ども達に大事にしてもらいたい心構えの話しがしたいと思ってしまった出来事があった。

世の中の「普通」と言うワードに危険が隠れている。

前回のブログと同じような内容になってしまうかもしれないが、メディアが発信している内容が普通、世間、世論、一般、大衆のような強い大きな正解じみたバイアスが掛かっている。

例で言うと、犯罪、事故のニュースが流れると物騒な世の中になっているねと言う方たちがいる。もちろん昔とは違う形の犯罪や事故が起こっているのは確か。しかし、事故や犯罪の件数で言うと年々減少している。人口が減っているのも影響しいてるかもしれないが、要は一概に一つの情報だけで結論づけるのはどうなのか?と思う節がある。

解釈を間違えるだけで大きく変わってしまうことが多々ある。ニュースに対してのコメントやコメンテーターの意見をちゃんと俯瞰して見ようよと私は言いたい。

ニュースや情報は一方的に発信している。この事に関して見る側は基本的には全て分からないが前提で物事を捉える必要があると思っている。

芸能人が不倫した、政治家が汚職した、学校の先生が性犯罪したなどなど、世の中的にはアウトな話しではあるのは確かであるが、目の前にその人と対話するとそんなに悪い人はいないのかなと思う時があるのではないだろうか。

やってはいけないことがあるのは前提なのだが、家庭内でもあまりにもちょっとした失敗やミスを親がテレビに向かって、携帯見ながらでも言い過ぎていると家庭内での価値観が固まり失敗の基準が出来てくると私は思っている。

子どもの味方であると応援し、何事も認めてあげるスタンスかもしれないが、学校の友達や先生、近所の人の何かに対して色々と言い過ぎてはいないだろうか?

あの子は問題児だよね!あの人は、あそこの家は、など外に対して評価があるような発言が子どもの頭に知らない間に自分もそう見られていると植え付けられているのではないかと思う。あのようになってはいけないんだ。と駄目の要素が多く固まってはいないだろうか。

自分の考えになってしまうが、外への視野、視座は自分を知るために必要条件ではあると思っているが、比べることが評価になっているのは全く良くないと思っている。

比べると言うのは「違いを知ること」。それが自分を見る第一歩である。

自分を知って、自分は何がしたいのか、自分がどうなりたいのかを考える。

私は外の出来事に対しては一緒に考えることが大事なのではないかなと思う。なぜ問題児のような行動をとるのかなぁ?なぜそうなったかな?と問いを立てて一緒に考えると外側の出来事にも背景やストーリーがあるかもしれないと見えてくる。

そうすると子ども自身が何か失敗をしても、時に悪いことをしても、どうしてなんだろうと考えると冷静に判断できるようになると思っている。

生死に関わることは反射的に怒ることは必須として、それ以外のことは誰でも人間なのだから失敗するでしょと寛容でいることが新たな行動に移れるのではないかと思っている。

「赤」「止まる!渡らない!」と反射的に判断出来ている子は良い子なのだろうか?

何を見て「止まる!渡らない!」と決められる子になってもらいたいですか?

大谷翔平だけが正解ではないですよね?我々凡人も人生楽しく生きることが正解ですよね?

そんな人間になってもらいたいと思い日々、自分でなんとかしろ!チェレンジしろ!と怒っちゃっています・・・(笑)

そりゃチャレンジできひんやろ(^^;

皆さん、寛容でいましょう(^^♪

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