認知は自分の見え方しか見えてない

我が家では兄弟喧嘩が日々行われている。

こちらからすると大したことないことで揉めてるように見える。

その大したことないことでも本人たちは喧嘩を始める理由になっている。

手を出すのは良くないと伝えている中でも、どちらかが先に手を出してしまう時がある。

その手を出すまでの背景、ストーリーを聞くと分からないでもない。

しかし、その背景にも一方しか聞かなかったら、もう一方の背景が見えてない。

つまり、どちらが悪いとか良いとか決めるのにはちゃんと背景を見ないと決められない。また、その背景も一時的なものではなくて、過去の出来事、歴史から見ないといけない時もある。

一概に自分が見えたものだけ、見せられたものだけ(プロパガンダ)で第三者が良し悪しを申すのはとても安易だと感じた。

子どもの喧嘩ですら背景がかなり詰まっている。

僕らが認知している世の中は本当にそうなのか?

常にもう一方はどうなっているのか?

または歴史はどうだったのか?

そこまで考えて見るようにすることが物事を大きく捉えられる人になるのかなと思った。

サッカーも全体像を常に意識した内容でトレーニングをしているつもりだが、それもこちらの一方的な見方なのか…?

選手もこちらの見方を知り、自分なりに解釈し、新たな視点を持とうと広い視野で物事を捉えられるような心の持ち方になってもらいたいと思っている。

戦争は反対だが、戦争にも僕らが想像できない大きな背景があるのではないかと考える。 世の中で起きてるすべてのこと、学校で起きてることや、チームで起きることも、すべてにもう一方の見方がある。 みんなで対話して答えを出すことが目的ではなく、論破するのではなく、より良い世の中をつくろうとするスタンスでありたいと強く思った。

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