受験生にとっての大詰めの時期に入ってきました。
いかに多くをインプットし、引き出せるのかの戦いが行われている。
覚えるワードや公式の意味や背景を理解することが本来の目的のように思うのだが、テストと言う点数争いの場合は中身や意味より、どうやって点数を取れるのかが鍵になってくる。分からないけど4択で合っていたら点数が取れる。
その為に塾では進学する学校の対策まで取る。
本来の目的は…。
日本の構造上行っていることは間違いないのかもしれないが生きると言うレベルでの話しならどうなのか?
自分自身の幸せは何なのか?
学習とは?知るとは?
小さい時は皆んな親や大人がやっていることや、世の中にあるものを「なにやってるの?」「これなに?」など全て疑問を持ち知ることを楽しんでいた。
ある時から、「知ること」を強いられ、知りたいと思う前に先に「知っていた方が良い」と勉を強いられる。
覚えるワード、もの、公式、出来事などの背景などいづ知らず。
保護者も「いいからやりなさい!」「黙ってやりなさい」など、意味を伝える前にやらせるが目的になる。それは解いている時間が無いから…。それも共感する。
そのように育つ子ども達はサッカーと言うゲームにも勉強感が出てしまう。
こちらもサッカーを論理的に伝えたりする。言語化なども流行っているがあまりにも行き過ぎると頭が重くなりつまらない授業のようになる。
それも指導者の目的ではない。
こちら側の指導も自己満にならないように振り返りをするが、選手や保護者にも持ってもらいたいことがある。
親子の会話のキャッチボールに意味を持たせてほしいかな。
言葉には意味がある。
何か声をかけるにも「なぜ?」「なんで?」が有り、それを子どもは理解しているのか?または知りたくないのか?
その訓練が出来ていないと全て受け身になり、誰かが言ってことを鵜呑みにしてしまう。自分が判断をすると言うことは自分の言葉になっていないとならない。
つまり、それは常に「何で?」があり、問いをもち続けるから判断も考えて決断する。
考えているから分からないことも分かる。
行動すべてに「何で?」と問いを持たせたい。
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