理論や理屈をついつい言いたくなってしまう我々少し先に生まれた人達
我々コーチ陣も言葉でしか伝えられないと思い口酸っぱく「言ったじゃん!」みたいな…。
そんな中に頭で理解できる子に目が行きがちで「あの子は理解できてる、あの子は賢い」とチーム内でも頭の良さのような物差しが前面に出てくる。
これを否定しているのではなく、どの年代にも、それこそ大人の中でも理解が早い少し勉強が得意な人がいると言うことを知り、出来ない人もまた多くいると言うことを知らないとならない。
理解が出来ないからダメとすると学校教育のようになり、多様性と言いつつ勉学の基準からは逃れられない仕組みになっている現況もある。
子ども一人一人にあったカリキュラムを対応するにはとても大変であるのも確か。
しかし、その個々が一つの箱に入るとその基準でしか測れない狭い世界観にとどまると思ってしまう。
基準は大事なのだが、こちらの少し先に生まれた人達の振る舞いがその子の居場所を確保できる唯一の手段なのではないだろうか。
烏天狗が大事にしているのは「観察」
子どもを観察して何が起きてるのか、何が課題なのかをよく見て、こちらの価値観を伝えるのではなく、どうなりたいのか?を自分自身にも問いてもらうようなアプローチを心掛け、ともに歩んでいくようなスタンスをとっている。
理屈だけのアプローチだけでは苦しそうにしている子どもが多々いる。
そのうち、理解しいるフリなど中途半端な技術を得てしまう。
理屈も個々に違ったタイミングがある。
知らない間に理屈が習慣化されるような仕組み、環境をこちらが用意できるかが少し先に生まれた人たちの役割なのかとつくづく思った。
子どもの年齢、身体の成長とともに頭もゆっくりと成長していくのを見守りたい。
そんな小学生のサッカーチームがさいたま市西区で活動している。
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