主語を常に意識する

何か行動をとる時や決める時に必ず「私が、私は」を入れて動きたい。

近年、情報が大量に飛び交う中で「本物」が何なのかを見極めるのが困難になっていると感じる。「本物」があるとすると「偽物」があることになる。その「本物」が何をもって「本物」と言えるのかも曖昧な世の中だと言うことが抜ける。

大衆が言っているからか、偉い学者が言っているからか、チャットGPTが言っているからか、お国の政策だからなのか…。

この大量にある「本物っぽい」「本物かもしれない」と言うものを自分で選んでいかないとならないのが現代人の宿命である。

つまり、何を選んでも「◯◯っぽい」かもしれないと言うことが含まれているのを念頭に行動をとることが人間であり続けることなのかと思う。

物事の「良し悪し」を決めるのも委ねるのではなく、「自分が」判断、決断したと言うことが人の道理のような気がする。

その判断、決断がたとえ見直した時に違っていたとてそれもまた良い。

人が変わることは悪いことではない。前に言ってたことが変わるのも自分自身で噛み締めた経験の結果である。

その自分で決めた結果の積み重ねこそが「本物」に近づいているのではないだろうか。

「本物」は自分自身が納得し幸せに感じられる物質的な物や心が動かす行動と定義したい。「本物」は自分で決めている。外に求めると言い訳が出る。

その各々の「本物」を子どもだけでなく、大人達へも持ったら幸せだろうと取り組んで活動しているチームがさいたま市西区で活動している四種小学生のジュニアサッカーチーム「烏天狗JrFC」である。

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