世の中の起きていることは現実世界なのだが、すべてが正解の世界なのかは疑問だ。
見えているものが本物と認識するのはあくまで自分の見方で決まる。
道路は安全に車が走れる場所と思っていたところに陥没してしまうこともあるようだ。
では危ないからと動かないのも違う。
安全と言われたから安心するのもまた違う気がする。
世の中が上手く回るようにと法律やルールがあり、お金と言うツールが使われ回っている。
しかし、これが世界のすべてではない。
法律もお金もある意味人間が今一番良いかもと思って作ったものだ。
それによって幸せな人と困っている人がいるのも現実だ。
つまり、完璧は無い。正解がない。
となると、すべてに疑わなくてはならない。
そしてエビデンスがすべてでもないと思っている。一つの指標にはなるが「エビデンスがすべてだ!」となることはどこか違和感がある。エビデンスからは見られなかったことが起きている。
ちょっと大げさに語りだしたが、サッカーにおいても自分のプレイ、コーチの指示などを疑っているだろうか?本当にそうなのか?良かったのか?もっと良いことはないのか?
自分はどうしたかった?それは最終目的から考えるとどうだ?
今においては良いことと認識しても自分で納得感が無ければ疑い続け、より良いを求めていけばよい。
そのより良いを考えることが人間なのではないだろうか。
自分だけが生きている訳ではない世界で、皆が周りも含めてより良いを考えると奪い合ってたり、搾取している場合ではない。
時間、空間を分かち合えるものになっていきたい。
サッカーも同じで、チームメイトや対戦する相手、同志にとっても良い空間になることが良いと思っている。
戦いは互いを高め合う。
スポーツは争いではない。
高め合う為の同志である。
自分がやってきたことはどうなのか?と問える最高の場が試合なのである。
勝ったから正解でも負けたから不正解でもない。
サッカーを通して勝手に人間として生きることの本質を問い続ける環境にしたい。
問う為には仮説を立てないと問えない。
仮説→実験→検証→考察
日々実験の連続である(^^;
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