こんにちは。先日都内で時間があったので東京地方裁判所に初めて入り傍聴席で二つの裁判を経験してきました。窃盗常習犯と会社同士の損害賠償訴訟。どちらも仕組みによる不具合が起こっていると感じました。
さて今回の話しですが学校教育に少し疑問を持っている私ですが、先生方には一生懸命現場を行ってくれているので文句はありません。
自分が言いたいのは仕組みの話しです。GHQが用意したカリキュラムが良いモラルをもたらしたが右ならへ右と疑問を持たせず憲法に乗っ取り行動を統制してきたことによるリテラシーが高くあるのかもしれないと思っているものの、各々で常に疑問を持ち続けて欲しいと願っています。
サッカーにおいても思考はとても大事になっています。その思考するプロセスを保護者が邪魔しているのではないか、または指導者が先生が邪魔しているのではないかと言われています。
これは以前にも自分も少し警笛を鳴らしてはいましたが大きく見るとこの世の中の仕組みがそうあることを助長して言えるようにも思えて仕方ありません。
資本主義ならぬ生産性重視、コスパ、タイパに価値があると思ってしまう。
そもそものスポーツとは生涯スポーツの延長からの競技思考がいつしか競技者で自分の価値を高めることが目的化しているように思えています。
本来自分自身の負けたくない思いから始まったサッカーの楽しさがいつしかやらないといけないことが多い強いられる競技へと変わっています。
サッカーが楽しくなくなってきている。それは指導者やチームの影響も少しはあるかもしれないが、根本は自発的に取り組めていない本人の心に課題があるのではないでしょうか。
そこまでサッカーを好きではないのかも。
努力するまではサッカーやりたいのではないかも。
ここを客観的に観て自分と向き合い自問自答し自分なりの回答を見つけていくことが自立ではないでしょうか。
保護者の想いや、サッカーに十分の時間を要したから勿体ない、とかどうでもよい。
保護者やチーム側が頑張らせようと思うのは世の中の価値のあり方がそうさせているからではないでしょうか。
価値の種類は自分で持つだけの種類が存在する。
これを資本主義が用意する価値にばかり捉われると自分の好きなどがなくなります。
自分が好きだと思うこと、可愛いと思う好みにすらバイアスがかけられます。
自分がサッカーと言うゲームに勝つために何をしたらよいかを自分なりに考えて行動をとって良いのがスポーツであります。
そこに手助けするのが指導者であります。手段のヒントを提示し自分で実験し実証し、つかんでいく。
自分でつかもうとしない、自分で向かっていこうとしない選手は競技サッカーを辞めても良いと思っています。
まずは自分で考えて行動することを前提に、次に誰に観てもらうかが大事なのかもしれない。
誰かのせいにするのではなく、まずは自分のありかたがだいじであって、自分で考えることから始めたい(^^♪
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