衆院選の結果がでましたね。どの政治家も弱気を守ると発言はしてます。
世の中は残酷で誰かの、世の中の評価が行動の大部分をしめてしまうことにあります。
だから、隣の人より評価を得ようと「自分がしたいこと」からづれるときがある。
サッカーチームだけではないが一組織、団体には色々な人間がいる。
どんなに選んで構成してもみんな同じとはならない。
その色々な人間が集まって一つの目的に向かうのがサッカーである。
そんなサッカーで勝利を目指すとき仲間のミスが許せない時がでる。
会社の仕事もそう。
もっとできるだろう。もっとやれよと要求する。
これはサッカーにおいてもダメではないのだが、どんなに頑張ってもできない人もいると言うことが抜けている。
よく究極の例を挙げるが、両手がある人、両手がない人で何か運ぶときにできることが違う。
これを同じ作業として捉えると両手がある子はない子より損をしている形になる。
同じ給与が発生していたら納得がいかないかもしれない。
しかし、兄弟、親、友達となれば助けてその子分まで頑張ってあげられる。
何が言いたいのか。
究極の差ではなくても微妙にみんな各々出来る出来ないがあると言うことと、
お金や評価、損得で考えると求め方、発言が温かくない感じになる。
私はそこを小さいうちから分かってもらうのではなく、そのような人がいると言うことを知ることが大事なのかと思っている。
その自分より出来ない人がいると知ることで自分はどうありたいのかと考えることが大事なのだと。
もちろん、この世の中の仕組みは多様性を認めると言いながら同調圧力がすごく自分の想いを行動に表しづらい環境になっている。
しかし、実際に行動にとれなくても、その人に対する感じ方、発言、思いは持つことができる。
だから、常に自分で考えどのように接するのが良いのかを評価を求める形で聞くのではなく、
自分にとっての良いを見つけてほしい。
それが「人」と言うことなのではないかと思っている。
自分が少しできていても、場所や環境が変われば自分の出来るが出来ないに変わるかもしれない。
そんなときにどうして欲しいか、どんな声がけが助かるのか、そんなことを考えられる人間なら世の中みんな幸せになると思っている。
仲良しこよしのなあなあ団体が良いと言ってない。
相手の気持ちを常に考えることが道理な気がしている。
我々のチームは答えを出すと言うよりかは常に考え続けると言うことこそが相手を世界を思いやると言うことの答えなのかと考えている。






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