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自主性から主体性へ

こんにちは。歯医者に行き少しキンとした痛みがあると伝えたら知覚過敏ですねと言われ、このかた44年間一度も虫歯になったことがないので虫歯の痛みを知らないでビビる烏天狗JrFC代表の岩田耕併です。

さてさて、ごみを拾う子供を見て思ったことのお話しをしたいと思います。

自ら行動をとる子どもは称賛されることが多いですね。
準備、後片付けなどをやっている子とやっていない子とは評価が違う。

学校やサッカークラブでも先生やコーチが言ったことをやってくれるのは褒めてもらうことが多いだろう。

これは第一段階の行動かと思っている。
褒められたい→手伝う→褒められる→嬉しい
園児のときは特にこの傾向があったのではないだろうか。

これを悪いとは言っていないことを前提にしたいが、皮肉的に逆説的に言うと褒められなければやらないとならないのか?
そんなことはない。

とっかかりとして行動をとるためには褒められるのは動機として納得する。

第二段階は本質はなんなのか。
自分で判断して責任持って行動をとる主体性なのではないだろうか。

道端に落ちてるゴミを拾う。
誰かに褒められたいからではない。
そのゴミがあることが違和感で嫌な自分がいて拾う。

この自分にとって良いと思う行動を外から見た人が良い人ぶっているなどど揶揄するときもある。

なんてこった。
どちらに行動とっても変なこと言う人がいるのはほっておこう。

何が言いたいのか
サッカーにおいてはルールと原理原則に乗っ取り、やらなきゃいけないことをやる。
これはあくまでも自主性の範囲である。
ここから活躍する選手になる為には主体性が必要であると思っている。

自分で判断して責任もって決断、実行する。
このトライを育むのが小さい時からずっとなのではないだろうかと思っている。

時にその行動は目につき、良くない時もある。
管理しているとなると時間が取られたり、都合悪かったりと社会の仕組み、時間軸で中々待てないことも多々あるので一概に先生達が悪いとも言わない。

しかし、我が子をみていても、学校の先生が管理しやすいように余計なことをしない子ども達を生産しているようにも見える。

その褒められるが評価と勘違いしている保護者もそれを後押しする。

これが社会においての生きる力を阻害しているようにも思う。

我々烏天狗では「自立」ももちろんだが、「自律」を目指して育むようにアプローチしている。

考えて行動をとることには時間が必要である。

慌てず見守ろう。

と言いながらも集合が遅いと怒ってたりもする私であります・・・(笑)

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