こんばんは。大分暑くなってきましたね。相変わらず更新が遅れている私です。
さて我が三番目の娘も友達関係で色々とストレスを抱えているようだ。
あの子が嫌だから遊ばないと言っていた2週間後には帰ってきて今日その子と遊んでくる!と元気に出ていく姿はあの発言はなんだったんだ?と思うことが多々ある。
思うに子どもは素直に発言する。
時に残酷な言葉を発する。
これは致し方ないと思っていることがある。
できない子に何でできないのだよ!と強く言ってしまう。
理解できてない子に分かる子が強く言ってしまう。
これは出来ない子がいることを知らないからである。
出来ない子や分からない子と接するすべを知らない子は自分と合わないと決めてしまう。
自分はよく片腕がない人の話をする。
A地点からB地点に物を運んでいるときに両腕がある子は二つ運べる。
片腕しかない子は一つしか運べない。
子どもたちに問う。これって不公平だよね?と
二つ運んでる子は損をしている?
この問いを投げかけて考えさせる。
究極なことだから分かりやすく彼らも納得する。
損得勘定ではないと。
しかし、権利を振りかざすのはいかがなものかとも自分はまた問いを投げかける。
片腕しかない子が俺は片腕しかないのだから仕方ないだろ!と強く権利を主張してくるのはどう?
子どもたちは冷静に考えちゃんと自分なりの道徳観を出してくる。
これが面白い。
これが正解なのではなく自分はこう思うと言う考えを発する。
権利を振りかざすのは単純にむかつくと言う感情。
出来ない子を守りたいと思う気持ちと、サッカーにおいては勝ちたいが上回ると言葉が過ぎると言う素直な感情があることを彼らは実感している。
口が悪い子にあの子は・・など大人がその子の一つの行為で人間性を決めるのは良くない。
小さければ小さいほど残酷なのである。
逆に悪いことを言ってはいけないと言うことだけを知っている子は問題発言はない。
しかし、感情のレベルも分からない。
自分はどう思う?と言われるとどうして良いか分からない。
言葉と感情を分けて、術として分からないから
悪いことは言ってはいけない=嫌だと思う感情もダメ
となってしまう。
サッカーに限らずだが人を動かしているのは理屈ではない。
心である。感情なのである。
この心を素直に生かし感情を持たせて行動をとらせているかで動きが変わる。
小さい時に感情を出させて思う存分にさせながら、言ってはいけないことや相手を傷つけるようなこと、人に迷惑をかけないことだけはしっかりと教育することが大事かと思っている。
わがままを言うことは人を困らせるから言わないほうが良いが、自分がやりたいと言う感情は持ってよい。悔しいとか楽しいとかの感情は大事にすることが区別がつかず自分が思うことが発することになるから全て良くないことになってしまっている子がいる。
少子高齢化による多く大人がいる多大化にある世の中で、大人の目を気にした行動で制限されているような子どもの扱いは可哀そうである。
子ども達だけの世界観による問題やルールを大人が介入しすぎている。
問題は良くないと捉えている大人が多い。
問題はすべて現状への問い、課題である。
これを子ども達が解決する前に大人がルールを決めて事なかれ主義の世界観になる。
だから世の中で何かあっても感情すら持たずに言われたことを行い、言われたことがどんな意味があって、何に向かっているのかさえ気付かずと言うより何も思わないマインドが未来の日本を担っていくのかと思うと残念である。
全てのことに対して本当にこれで良いのか?
自分にとってのベストは何なのか?
色々なことを知り、問題を経て、色々な人間に触れて、自分なりの道徳観を養い、自分の幸せを見つけていくことが本当の自立と思っている。
我々大人が出来ることは教えるだけでなく、横に並んで一緒に考えるということもあるように思う。
子ども達が大人より持っていることがある。
「可能性」である。
これを邪魔しないことに徹したい。
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