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映画セブンを思い出した。

現場の外にいる時より国立競技場での観戦だけの時の方が断然寒さを感じた烏天狗JrFC代表の岩田耕併です。

先日我が娘と我が息子が兄弟喧嘩となり弟が手をあげました。このことについて少しお話しします。

自分は映画ブラット・ピット主演のセブンを思い出しました。

悪いとは?

事実として弟が手をあげることは駄目なこと。
それは前提としてあるのだが手をあげたくなるくらいの背景ストーリーがあった。

ここが難しい判断になると思っていて議論の余地はあると思っている。

やってはいけないことをやると世間や世論は袋叩きにする。
メディアがSNSが一方的に好き勝手なことを発していると自分は思っていて違和感を覚える。

そのやってはいけないことをやった人の背景やストーリーが抜けているということ。

殺人は絶対に駄目である。
そんなことは分かっている。
なのにそれを犯す時があるかもしれないのである。

映画セブンで言うなら愛する奥さんを、身ごもった奥さんを、生まれてくる子どもの命を奪われたら冷静でいられるのだろうか。
絶対にやってはいけないことなのであるのだが、好き勝手言っているメディアや共感する観衆に問いたい。

絶対にやらないって言えるか!?

その状況になったことがない人が正義とかモラルとか常識とか、人間が作った概念でいい人ぶっているように自分は思うことがある。

我が息子にも駄目なものは駄目と話しはしたが、逆にそうまで追い込んだ姉にも人の気持ちを考えて発言しないと言葉もナイフと同じように手をあげたくらいに悪いことなのだと話しをした。

このようにどちらにも否があるし、最初に煽った人がとくに悪いとも思っているが、ようはやってはいけないことをやった時の回りの見方がちょっと強すぎるように思う。

殺人は駄目である。
これは間違いない。
しかし、その他の駄目と言われること、ルールを破ったり、学校での態度、世間での態度、それこそ人の恋愛スキャンダルに関してもメディアが取り上げる必要があるのだろうか。
それを見て揶揄する観衆がいる限り、子ども達が何事にもチャレンジ、トライしやすい環境になっていくと思っているのだろうか?

自分はこの良くも悪くも日本のキッチリした性格、文化背景が子ども達にとっての生きづらい社会を作っているような気がしてならない。
治安や安全性は確かに日本は素晴らしい。
自分も海外より日本の方が住みやすい。

しかし、時として行き過ぎてはいないだろうか。
子どものやることや、犯罪では無いことなどの捉え方を変えることが大事なのでないだろうか。

そんな人それぞれのスタンスが日本のサッカーを変えると思うし、より良い世の中ウェルビーイングになっていくような気がしている。

世間、世論、メディア、評価などを気にする保護者の子どもほどチャレンジが苦手な気がしている。
多様性、ひとりひとりがとか言ってるなら、ほっとけって話しである。
人の粗相を探してる暇があるなら自分の人生を考え、どう生きるのか、どう死んでいこうとしているのかを考えたい。

一度しかない人生なんだよ。
一生チャレンジしかないと思っている。